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  • 執筆者の写真須賀雅子

㊷「ピカケ」

 この花は、ハワイ王国最後の王女カイウラニが愛した香り高い花。

王女が暮らした邸宅の庭では、大好きだった50羽もの孔雀が飼われ、そしてこの花によって包まれていた。この花はジャスミンの一種マツカリという名があったが、ハワイ語で「ピカケ」と呼ばれた孔雀と共に、カイウラニ王女が愛したものとして「ピカケ」として呼ばれるようになった。

王女の邸宅の跡地には現在、ホノルルの大型高級ホテル「シェラトン・プリンス•カイウラニ」が建っている。


 ここまでが、ピカケを育て始めた頃に知った事柄でした。

しかし、今年も咲き始めたピカケを眺めながら、私は王女カイウラニについて何も知らない事が心に引っ掛かりを感じ、ハワイ王国最後の王女に寄り添ってみました。

 王女カイウラニは、1875年(明治8年)ホノルルで生まれます。

母は、当時独立国であったハワイ王国のカラカウア王の妹で、父はスコットランド人の実業家でした。幼い頃から王家の次世代後継者と目され、国民的人気も高かったそうです。

 伯父のカラカウア王は移民問題を学び、外交関係を改善するために各国を歴訪しますが、1881年(明治14年)日本を訪れ、赤坂離宮にて明治天皇と会見します。これは日本にとって初めての外国元首の来日でした。

この時カラカウア王が日本に移民の要請をしましたが、もう一つの要請は驚くべきことでした。それは、当時まだ5歳だったカイウラニ王女と日本の皇族との縁談だったのです。

ハワイ王国と日本の皇室との結びつきを強くしてハワイ王国を存続させたいという思いだったのでしょう。しかし明治天皇は、国力増強に努めているところだったので、そこまでの余力は無いとして断ったのです。

 その後カイウラニ王女は14歳の時、カラカウア王の指示でイギリスに留学しますが、ハワイでは、アメリカ系移民によるクーデターが起こり、カラカウア王は失意の中、病に倒れ亡くなってしまいました。

 アメリカ合衆国への併合を求める声が高まってゆき、1893年(明治26年)ハワイ王国は滅亡してしまいます。その時カイウラニ王女はまだ17歳でしたが、クーデターの不当を訴えアメリカ大統領との面談に成功します。

当初アメリカ国内では、「野蛮なハワイ人の娘がやってくる」と思っていましたが、カイウラニ王女が実際に与えた印象は全く違うものだったのです。

当時の新聞によると「美しいアクセントはロンドン風、端麗な容姿はニューヨーク風、センスの良さはパリ風、そしてあたたかい心はハワイアン」

アメリカ大統領もクーデターの徹底調査を約束してくれました。

 しかし、アメリカによる併合の流れは止めることができず、1898年(明治31年)イオラニ宮殿ではハワイ王国の国旗が降ろされ、星条旗が掲げられました。古来のハワイ住民たちは悲しみの声をあげたそうです。

 そのような状況になってもカイウラニ王女は立ち向かったのです。

既に王女でもなく政治家でもない22歳の女性は、アメリカから派遣された長官たちにハワイの現状を知ってもらおうと努力しました。

それまで、アメリカ系移民によってハワイは野蛮だという印象をつけられていましたが、ハワイの音楽やフラダンス、料理などでもてなしながら、ハワイ先住民への選挙権付与を請願したのです。

これによって議会にかけることが約束されました。

 その翌年のことです。

雨に打たれ肺炎を患ってしまったカイウラニ王女は、23歳の若さでこの世を去ってしまいました。

その時、カイウラニ王女が可愛がっていた孔雀の鳴き声が町中に響き渡り、人々はその声で王女の死を知ったと言われています。


 王女が愛したピカケの花は、白く可憐で、甘い香りに優しさがあります。

しかし私は、カイウラニ王女の生涯を知ってから、凛とした力強さも感じられるようになりました。



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